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六曜はいつから使われている?江戸時代の暦事情

冠婚葬祭の日取りを決めるとき、「大安」「仏滅」「友引」といった六曜を気にする方は多いでしょう。しかし、六曜がいつから日本で使われているのか、なぜこれほど定着したのかを知る人は意外と少ないものです。この記事では、六曜の起源から江戸時代の暦事情、そして現代に至るまでの歴史をたどります。

六曜の起源 — 中国の占術

六曜のルーツは中国にあるとされていますが、その正確な起源には諸説あります。一説では、三国時代の諸葛亮(孔明)が軍略に用いた占術に由来するとも言われますが、これは伝説的な要素が強く、学術的には確認されていません。

より有力な説としては、中国の暦注における「時刻の吉凶占い」がもとになったとするものがあります。もともとは日の吉凶ではなく、一日の時間帯ごとの吉凶を占うものでした。これが日本に伝わる過程で、日単位の吉凶を示すものへと変化していったと考えられています。

日本への伝来 — 鎌倉時代

六曜が日本に伝わったのは鎌倉時代(13世紀頃)とされています。当初は「六壬時課(りくじんじか)」や「小六壬」と呼ばれ、現在の六曜とは名称も内容も異なるものでした。

伝来した当初の名称は「大安」「留連」「速喜」「赤口」「将吉」「空亡」で、現在とはかなり違っています。これらの名称は時代とともに変化し、室町時代から江戸時代にかけて、現在の「先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口」の六種に落ち着いていきました。

江戸時代の暦と六曜の台頭

江戸時代は暦文化が花開いた時代でした。庶民が暦を手にするようになり、暦注への関心が高まります。当時の暦にはさまざまな暦注が記載されていましたが、六曜が一気に普及したのは江戸時代後期のことです。

江戸時代の暦には、暦注(選日)として九星、十二直、二十八宿などが記載されていました。六曜はこれらに比べると後発の存在でしたが、そのシンプルさが庶民に受け入れられた要因の一つです。6日周期で繰り返すという単純な仕組みは、複雑な他の暦注に比べてはるかにわかりやすいものでした。

幕府の暦と民間の暦

江戸幕府は暦の発行を厳しく管理していました。公式の暦は天文方が作成し、暦屋が幕府の許可を得て印刷・販売するという仕組みです。公式の暦には六曜は記載されていませんでした。

しかし民間では、公式の暦に載っていない暦注を追記した「略暦」や「柱暦(はしらごよみ)」が流通していました。柱暦は細長い一枚刷りの暦で、柱に貼って使うものです。六曜はこうした民間の暦を通じて広まったと考えられています。日本の暦の歴史の中で、六曜は民間主導で普及した珍しい暦注と言えます。

明治の禁止令と「おばけ暦」

明治の改暦にともない、明治政府は旧暦に基づく暦注の記載を禁止しました。六曜も「迷信」として排除の対象となったのです。しかし庶民の六曜への需要は根強く、政府非公認の暦が密かに流通しました。これらは「おばけ暦」と呼ばれ、六曜をはじめとする暦注がしっかりと記載されていました。

政府の禁止令にもかかわらず六曜が生き残ったのは、冠婚葬祭における日取りの目安として庶民の生活に深く根づいていたためです。結婚式は大安に、葬儀は友引を避ける、といった慣習は明治以降もずっと続いてきました。

戦後の復活と現代の六曜

第二次世界大戦後、暦注の記載に関する規制が緩和されると、六曜はカレンダーや手帳に再び記載されるようになりました。高度経済成長期には結婚式場やホテルが大安の日に予約を集中させるなど、六曜はビジネスとも結びついて定着していきました。

現代では、六曜に科学的根拠がないことは広く認識されていますが、それでも冠婚葬祭の日取り選びの参考にする人は少なくありません。六曜の科学的検証を踏まえたうえで、文化的な慣習として尊重する向きが一般的です。

一方で、公共機関のカレンダーから六曜を削除する動きもあります。六曜による日の吉凶が差別やいじめにつながるという指摘もあり、六曜との付き合い方は現在も議論が続いています。

まとめ

六曜は中国に起源を持ち、鎌倉時代に日本に伝来し、江戸時代後期に現在の形に定着しました。明治の禁止令を乗り越え、戦後に復活するという波乱の歴史を経て、現代のカレンダーにも記載され続けています。六曜の歴史は、制度や科学では割り切れない、日本人と暦の深い関わりを物語っています。干支和風月名とともに、暦文化の奥深さを感じてみてください。

よくある質問

六曜は中国から伝わった?

はい、もとは中国の占術に由来するとされています。日本には鎌倉時代に伝わり、江戸時代後期に現在の6種類の形が定着しました。